心象風景
(1)
我が家は、昭和19年に、東京から母の実家を頼って、栃木県下都賀郡穂積村外城(現小山市外城)に疎開しました。
この村で私は、幼少時代の6年余りを過ごしたのですが、心に残る数々の自然体験の舞台になった場所こそ、この村に他なりません。
ふと思いついて、Googleマップで、外城を検索してみて驚きました――当時の外城は、総戸数わずか20戸ほどのちっぽけな村でしたが、それが地図の上から跡形もなく消えて、『小山総合公園』という大きな公園に生まれ変わっていたのです。
村の北側にある鷲神社と村の西側を迂回する思川とは昔のままですが、それ以外の村のたたずまいは、稲村さんの家も、青木さんの屋敷も、小嶋朋幸君の家も、沼部さんの家も、旭ちゃんの家も、我が家がその離れを借りていた高橋さんの家も、庄ちゃんの家も、村はずれの坂道も――というように、何もかもなくなって、跡地には、ジョギングコースだのバーベキュー広場だの水上アスレチックだのを備えた、広々とした公園ができていたのです。
西林寺わきの竹やぶを抜ける道は真昼間でもほの暗い道でした。
ある日、母と連れ立ってその道を歩いていた時のことです。母がふと思い出したように、「ちっちゃんちゃんがね、ここは、仰向いたまんまでも、真っ直ぐ歩けるって」
その言葉につられて顔を上げてみると、黒々と生い茂った葉に縁どられたほの白い空が、一筋すうっと目に入ったのです。
村はずれには、西林寺からほど近いところに鷲神社の杉並木があり、杉並木が尽きたところには、神社の社殿が立っていました。
疎開暮らしのあと宇都宮に引っ越して、11年ほどして、長兄の車に妻ともども乗せてもらって外城を訪れたときにも、村のたたずまいはまだ昔のままだったのです。
このモノクロ写真はその時に私が撮ったものですが、Google マップで調べてみると――あれからすでに半世紀以上もたっているのに――社域は、昔ながらに手入れがしてあることがわかります。
村の入口の三叉路と、南のはずれの三叉路と、村のほぼ中央にあった会所の前と、西のはずれのだらだら坂と――都合4か所に、この写真のような火の見櫓が立っていました。
高いはしごのてっぺんにつるしてあった半鐘が鳴らされた記憶はありませんが、今では全く見かけなくなったこの背高のっぽの建築物は、幼少時代の田舎暮らしを如実に物語る心象風景の一つとして、懐かしく思い出されます。
大水が出た日の朝、村の西のはずれの坂道まで行って見ると、広々とした田んぼも、田んぼの間を縫って流れる小川も、小川のとある曲がり角でもくもくとわき出ている泉も、春にはゼリー状のカエルの卵をよく見かける小さな沼も、渡し場に通じる曲がりくねった道も、思川と田んぼの間に細長く伸びる雑木林も――何もかもが、見渡す限りの泥の海に飲み込まれてしまっていました。
この写真は、宇都宮に引っ越して、6年ほどして、昔の仲良し4人組で穂積小学校を訪れたときのものですが、渡し船をこいでいるのは、昔、私たちが「トラさん」と呼びならわした渡し守とは別人です。
トラさんは、向こう岸の土手っぷちの掘っ立て小屋に住んで、こっちの岸から向こうの岸へ、向こうの岸からこっちの岸へと、舟を渡して一日過ごす、一人暮らしの渡し守でした。
その「トラさん」で思い出すのは、寒い冬の朝などは竿のしずくで手が濡れてさぞかし冷たいことだろうと、子供心にも密かに同情を寄せたことです。
渡し場にまつわる思い出をもう一つ。
それは、ある朝学校に行くとき、渡し場からすぐ近くの堤防下で、上級生にけしかけられて庄ちゃんとケンカして、ほっぺたに傷を負わせてしまったことです。生まれつきおとなしい性格で、今に至るまで、ケンカらしいケンカをしたことのない私は、庄ちゃんとのあの時のケンカのことは、忘れようとしても忘れることができません。
次に思い出すのは、1、2年生の担任だった――太り気味のお母さんのような――I先生のときに、何年のときの何の時間だったかは思い出せませんが、テストの席順が下がったのに、最前列の席を、意固地になって、譲ろうとしなかったことです。
小学校にまつわることで、まず思い出すのは、入学式当日、校庭に整列する前に、付き添いの父から、私が2組で白組だということを幾度となく念を押されたことです。
3年生の担任だった――丸顔のぽちゃぽちゃとしたお姉さんのような――S先生には、特筆すべき思い出があります。
それは――職員室を過ぎたあたりで、ふとしたはずみに、廊下を駆けてしまって、その直後に後ろから名前を呼ばれたものですから、てっきり週番に見つかったに違いない、と思ったのです。つかまれば、廊下を走った罰で、とっちめられるに決まっている、それが嫌さに、聞こえないふりして歩き続けたのですが、角を曲がってすぐのところで追いつかれてしまいました。校則を破ったうえに、知らんぷりして逃げようとしたのですから、こっぴどくやっつけられるに違いない、と観念していますと、追っ手から意外なことを告げられたのです――「先生が、描いてもらいたい絵があるから、すぐ職員室に来てくれって」
次いで、たぶん学芸会の飾りつけをしていた日のことだと思います――先生が机の上に立って飾りつけ用のテープか何かを手に持って天井に手を伸ばしているのを下からハラハラしながら見守ったことです。
先生のことでは、他に思い出すことが幾つもあります。
その一つが、ある日の音楽の時間のことで、男の生徒たちがいつまでたっても騒ぐのをやめないので、困り果てた先生がピアノの前で泣き出してしまったのです。すると、通路を挟んで左側の席に座っている女の生徒たちも、いっせいにしくしくやりだしたことです。
S先生には、宇都宮に引っ越してから、たまさかに手紙を出したり、高校や大学に入ったときに会いに行ったりしたことがありますが、今にして思えば、私は、先生に初恋に似た思いを抱いていたのかもしれません。
もう一つは勉強に関することで、「文字」という漢字は、「もんじ」とも「もじ」とも読めると先生から教わってから、その教えを勘違いして、何年もの間、「文字」という漢字に出くわす度に、いちいち「もんじもじ」と心に読み続けたことです。
絵のことで他に忘れられないのは、(このことはアメブロの『シニアのコラボ』に載せたことがあります)、4年生の担任だった――痩せぎすのお父さんのような――T先生から、ある日の図画の時間に、『爪を切りましょう』のポスターを描いたとき、指にくらべてハサミをバカでかく描いたところがいい、とクラスの前でほめられたことです。
(2)
外城にまつわる思い出は、多岐にわたっていて、枚挙にいとまがありませんが、それらは細大漏らさず、平成10年に書き上げた『作品ゼロ』に収めてあります。
その中から、恣意的にいくつか拾い出してみますと――
思川へ父と水浴びに行ったとき、子ども同士では渡ったことのない向こう岸まで渡って、川の流れが澱んだところで、父と二人だけで泳いだことがありました。
ある日、思川沿いの雑木林で、父と二人で燃し木を拾っていたとき、運悪く、見回りに来ていたよその村の男の人に見つかって、「誰の許しで拾いに来たんだ」と、どやしつけられたことがありました。
長兄は、沼部さんの長男のYサンと小山実業学校の同級生で、二人とも学生帽のてっぺんをテカテカに光らせたりして、かなり「トッポ」かったので、女の子たちからチヤホヤされているようでした。
しぶしぶ家を出ると、雨にぬれながらハダシでとぼとぼ歩きだしましたが、雨が降るのにカサも持たずに学校へ行くのは、やっぱり恥ずかしかった。で、家を出てすぐのところから引き返して来てしまいました。母には、「ハラが痛い」とうそをつきました。「カサがないので恥ずかしい」とは、どうしても言えなかったのです。
水浴びには大抵姉が一緒でしたが、時とすると、上流から黒っぽい人影が一団となって向かって来ることがあって、それを目にすると、私たちは取るものも取りあえず河原を逃げ出すのが常でした。
次兄には、イモ掘り棒でヤマイモを掘りに連れて行ってもらったり、カスミ網で小鳥を取りに連れて行ってもらったり、ぼっこみ釣りでガンガラを釣りに連れて行ってもらったりしました。
庄ちゃんの家近くの道端で、二、三人して遊んでいたときのことです。旭ちゃんがいきなり右手を口の中へ突っ込んで、ノドに引っかかった魚の骨でも取るようなかっこうをしたかと思うと、何か白っぽいヒモのようなものをひっぱり出して、地面へ投げ捨てたのです。何と、それは、生きた回虫だったではありませんか!
戦後まもない生まれで、幼少期を外城で過ごした弟は、いつも二本棒を垂らしていたものですから、鼻の下がかぶれて真っ赤になっていました。
村の西側には、桜の木だのクヌギの木だの竹やぶだのが、こんもりと生い茂っていました。秋になって田んぼ道から村の方に目をやると、森の木々の間に、真っ赤に熟したカラスウリの実が、くっきりと浮かんで見えるのでした。
ある日学校で、くじ運の弱い私がめずらしくくじに当たって、配給のズック靴を手に入れたことがあったのですが、その靴は、家に帰ってから履いてみると、何と、左右片ちんばだったのです。
朋ちゃんの家から程遠くない畑の中に、村でただ一軒の酪農家があって、白黒ぶちの乳牛や大きな牛乳カンなどがめずらしくて、それが見たさに、庭の方まで入って行ったことがよくありました。
小学校の西隣の中学校で野球の試合を見物していたときのことです。いきなり、私めがけて飛んでくるボールが目に入ったのです。が、不意を食らった私は、とっさによけることもできずに、目の前に迫ったボールを呆然と見つめました。
「けさ、卵食ってきたんべ」――朝礼のとき、ナンボにそう言われて、私は初めて朝ごはんのみそ汁が口元にこびりついているのに気がついたのでした。ナンボは、それを――色が似ているところから――卵の黄身と見まちがえたのです。
学校の帰り、校門を出てすぐのところを誰かと連れだって歩いているときでした。私たちを追い越していく二人連れの中学生が、得意げに英語を発音するのを耳にして、私は思わず、「中学に入ったら、きっとしゃべれるようになってみせる」と心につぶやいたのです。
(3)
ヤング時代の「若気の過ち」を文学によって贖うべく
40年にわたって模索を続ける
50代の終わり近くに突然「詩」に目覚め
長年の薀蓄を傾けた純文学系の詩文集『眠れぬ夜に』(平成11年度日本図書館協会選定図書)を出版
60代に入り
30年以上続けていた学習塾を畳んで
文学以外の世界に目を転じようと
10年あまり法律系の資格試験に挑戦
その成果として
実用書のジャンルに属する
『夢をゲットする勉強法(三々回し)』を著す
生涯かけて書くことにしている3つのジャンルの作品群のうち
3番目のジャンルの作品を書くために
POD出版をするなどして
目下その下準備をしている最中